-PBインタビュー・コレクション-

塩野 七生(作家)/Nanami Shiono

「古代ローマに学ぶ、日本改革の処方箋」

月刊PLAYBOY編集部=文/飯田安国=写真
text by PLAYBOY JAPAN/photographs by Yasukuni Iida

 塩野七生が地中海世界に興味を持つきっかけとなったのは、ハリウッド映画『トロイのヘレン』(1955年)であったという。そこに登場する古代ギリシャの英雄たちに恋をした早熟の高校生は、すぐに英語版の『ホメロス』を読破し、それではもの足りなくなり、ギリシャ語をマスターしようと考え、学習院大学哲学科に入学。
 同大学を卒業後、イタリア遊学中に書いた『ルネサンスの女たち』で作家としてデビュー。以来、『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅な冷酷』『海の都の物語』など数々の「ルネサンスもの」を上梓してきた彼女がいよいよ、ルネサンスの原点というべき古代ローマ史に挑むと聞いてファンは狂喜したものだった。
 その期待は裏切られなかった。毎年1冊のペースで発刊されている『ローマ人の物語』は今年で第11巻を数える大著だが、「活字離れ」が叫ばれる中、各巻数十万部という驚異的な部数を記録し、今や経営者の必読書とさえ言われるほど。
 われわれはその塩野七生が「改革」をテーマにローマ史を読み解くという『痛快!ローマ学』を出版すると聞き、その内容をいち早く知るべくローマに飛ぶことにした。
 古代ローマ時代と変わらぬテベレ川の河畔に立つ作家のマンションでインタビューは始まった。私たちはそこで、日本の現状を誰よりも深く嘆きつつ、それでいて日本を愛してやまない、真の意味の「愛国者」と出会うことになるのである。

<PLAYBOY(以下PB)>塩野さんがイタリアに移り住むようになって、もう30年以上になります。最近の日本をローマからご覧になっていて、どう感じますか?
<塩野>数年前に、アレックス・カー氏が日本をついに離れましたね。聞くところによれば、ピーター・タスカ氏もかなり日本に絶望しているらしい。カー氏にしても、タスカ氏にしても日本人以上に日本が好きで、カー氏なんて日本語で書くほうが英語よりも得意なほどだけれど、その日本ファンの彼らにしても、最近の日本はそばで見ていられないらしい。私は彼らとは逆で、日本人でありながらローマにいるわけですが、その切ない気分はよくわかる気がしますね。

雨が降る前に傘を用意させる、それがリーダーの仕事

<PB>日本を見ていられない?
<塩野>ところが、どうやら日本にいる日本人は、そこまで深刻に思っていないんじゃないですか?
<PB>いや、さすがに最近は違ってきているでしょう。『ローマ人の物語』の続刊が出るたびにベストセラーになっているのも、古代ローマを見習って日本をどうにかしなきやいけないとい問題意識があるからではないですか?
<塩野>さあ、どうでしようね。この30年というもの、私はずっとルネサンスやローマの男たちの物語を書いてきたわけですが、その間ずっと「いやあ、塩野さんの書くような男は日本には必要ないんですよ」と言われつづけてきたんですから。
<PB>欧米型のリーダーは「日本株式会社」には不要というわけだ。
<塩野>それに対して「たしかに今はそうかもしれないけれど、これからどうなるか……」って思ってきたから、ここまで書き続けてきたわけですが、こうなってみるとなぜか情けない気がしますね。
<PB>今やどこに行っても英雄待望論ですものね。日本人がリーダーシップの必要性に気づくのに30年かかってしまった。
<塩野>ようやく、というか、やむをえずその認識を持ち始めたというのが実際のところじゃないでしょうか。たとえばビジネスにしても、同じ業種なのに会社によって給料もボーナスも違う。それはなぜかといえば、結局はトップの違いではないかとわかってきた。また官僚に任せれば全部やってくれるかと思ったら、意外と何もできなかった。そのおかげで不況は脱出できないし、預貯金金利はゼロに限りなく近い。これはおかしいじゃないかというわけですよ。
<PB>日本人は気づくのが遅すぎた?
<塩野>いや、日本人にかぎらず、どこの国でもそれは変わらないんです。たいていの人は雨が降り出してから大慌てで傘を出す。だから、しばしばびしょ濡れになってしまうわけ。リーダーが必要だというのも、そこなんですね。雨が降る前に天気予報などを見て「明日は雨が降るから、傘を用意しろ」とみんなに言う。言うだけではなくて、傘を用意させる。それがリーダーの仕事であるわけです。
<PB>ところが日本のリーダーたちは、この10年あまり、土砂降りの不景気なのに「まだ大丈夫」と言いつづけてきた。銀行は潰れない、株も大丈夫と言いながら、悪くなる一方です。
<塩野>その気持ちはわからなくもありません。「雨が降る」と言って、もし晴天になったら、「なぜ傘なんか用意させた」と批判されるわけですから。
<PB>でも、それは要するに責任回避でしかない。
<塩野>まだ雨が降っていないのに、傘を用意しろと言えば、それは反発も多いでしょう。「今は、こんなに晴れているじゃないか」とみんなは言う。言うに決まっています。晴れの日に傘を用意するのなんて、面倒じゃないですか。でも、そこでリーダーは引っ込んじゃいけない。みんなが納得しようがしまいが、強制的に命令を出す。それがリーダーの権力というものなんですね。
<PB>でも、それで雨が降らなかったら?
<塩野>それを考えるから、たいていの政治家は黙ってしまうわけね。でもチャーチルはこう言っていますよ。もし傘を用意させて雨が降らなかったら、どうするのか。そのときに政治家は逃げたらいけない。みんなの前に出て、堂々と説明する。なぜ自分は雨が降ると考えたのかをきちんと説明し、そのうえで「今日は雨が降らなかったが、3日以内には降るはずだから、それまで傘は片づけるな」と命令する。これができて初めて政治家だとチャーチルは言っているわけです。つまり説明責任ということだけれども、やはりリーダーには説得力がなければいけない。
<PB>そんなリーダーが今の日本にはいないんですよ。みんな責任回避ばかり考えている。
<塩野>政治の役割は、国民に無用の浪費をさせないことにあると私は思います。傘を用意しておけば、びしょ濡れにならずに済んで浪費が減る。そう信じたら、権力を使ってでもそれを実行させるのがリーダーの義務なんです。でも、日本のリーダーはそんな厄介なことをしないでも、この半世紀やってこれた。というのも、多少雨に降られて出費が増えようと、高度成長のおかげで浪費をカバーできたからです。
<PB>だからリーダーが無能でも、それが露見せずに済んだ。
<塩野>しかし、これからはもうその方法では通用しない。もはや高度成長の時代が終わったことは誰の目にも明らかです。となれば、あとは安定成長の道を模索するしかない。
<PB>つまり国民に損をさせない政治ということですね。
<塩野>だからこそ、これからの日本にはリーダーが絶対に必要になってくる。私はそう思いますね。

公共の利益を実現する目的のためなら、どんな非常手段を使ってもいい

<PB>でも、今の日本でカエサルみたいなリーダーが現れてくるんでしょうか。
<塩野>まず大前提を言えば、私は今の日本は人材不足だからリーダーが出てこないとは思いません。人材はいつの世の中にもいるんです。
<PB>日本にも、隠れた人材はいると?
<塩野>問題は、人材がいてもそれを活用できなくなっているところにある。国家に限らず、どんな組織でもそれは同じですね。興隆期には人材を発掘し、活用するメカニズムがうまく働いているのだけれども、それが衰退期に入ると機能不全を起こす。
<PB>日本の場合、今なお年功序列社会ですからね。
<塩野>いや、それは古代ローマも同じだったんです。ローマの共和政を支えていた元老院は年功序列が基本でした。
<PB>日本株式会社ならね、ローマ株式会社だ。
<塩野>そもそも共和政というのは、アンチ独裁、アンチ王政から始まった政治形態ですから、個人プレイを嫌う。一人のリーダーに任せて政治をさせると独裁になるから、集団指導体制でやろうというのが共和政の基本だったわけです。だから、ローマの政治は能力主義を極力排して、経験重視、年功重視で行われていました。
<PB>ローマというと英雄が活躍する歴史とイメージしてしまいますが、そうではないんですね。
<塩野>まだ国の規模が小さくて、成長する一方の時代には、個人によるリーダーシップよりも、集団指導体制がいい場合もあるんです。そうしたほうが上から下まで市民が一致団結できるし、「規模の拡大」という目標が明確ですから、合議をしていてもそんなに紛糾しない。個人プレイに任せるより、そっちのほうがかえって政治が安定するし、成果も出る。
<PB>労使一体で輸出競争を戦った日本企業みたいなものですね。
<塩野>実際、ローマの共和政はそれと同じことをしているんです。というのは、ローマの元老院がいわば取締役会だとすると、一般の平民は従業員にあたるわけですが、その平民の権利を守る護民官は任期が終わると、ほぼ自動的に元老院議員になれた。つまり労働組合の委員長が、そのまま経営陣に加わるようなものですね。
<PB>ところが、その体制がうまく行かなくなるわけですか。
<塩野>その境目となったのがポエニ戦役です。
<PB>ローマとカルタゴという地中海の二大国との間で行われた大戦争ですね。
<塩野>ポエニ戦役は地中海全域で繰り広けられたという意味で、私は古代の世界大戦だと思っているのですが、ローマは組織力のすべてを使ってカルタゴを下します。その結果、ローマは地中海の覇者になるのだけれども、このころから集団指導体制が機能しなくなってくるのですね。というのも、ローマは成長の限界に達してしまった。地中海世界をすべて支配下に置いたことで、それ以上の拡大がありえなくなった。そこから1世紀半にわたる混迷の時代が始まるのです。
<PB>戦争に勝って、混迷の時代に入るというのも皮肉な話ですね。
<塩野>それを言えば、今の日本も変わりませんよ。ローマとは違って、日本の場合は本物の戦争をしたわけではない。しかし、そのかわりに貿易戦争、経済戦争の勝者にはなった。バブルの頃の日本人は、ジャパン・マネーでアメリカ一国が買えると戦勝ムードにひたっていたではありませんか。
<PB>その現代日本の混迷と、古代ローマの混迷は根っこが同じであると。
<塩野>今の日本人が「個人資産が1兆2000億円もあるのに、なぜ不況なのか」と思っているのと同じように、古代のローマ人たちも「自分たちは地中海の覇者になったはずなのに」と思っていたんです。なにせ当時の首都ローマには人口の7パーセントの失業者がいたのですから。
<PB>それを解決したのがユリウス・カエサルというわけですね。
<塩野>今の日本では不況対策として、ハード・ランディングかソフト・ランディングかといまだに議論されているわけですが、カエサルはハード・ランディングしかないと考えた。なぜなら、あらゆる改革には抵抗勢力が付きものだからです。何かを変えれば、それは誰かの既得権益を奪うことになるわけだから、元老院で話し合いをしていたのでは何も決まらないというわけです。
<PB>しかし、カエサルのやったことは共和政を廃止し、帝政を作ることだったわけでしょう。それは独裁体制ではない?
<塩野>では逆に質問しますが、共和政を守って市民が不幸になるのと、独裁ではあっても市民が幸福になるのとでは、どちらを優先させるべきだと思いますか? 市民を不幸にしてまで守らなければならないシステムがあるのでしょうか。大事なのは目的を達成することであって、システムとはただの手段にすぎない。そうじゃありませんか?
<PB>目的は手段を正当化する、と?
<塩野>その言葉はしばしば誤解されていますね。これを最初に言ったのはマキアヴェッリですが、彼は公共の利益を実現する目的のためなら、リーダーはどんな非常手段を用いてもかまわないという意味で、「結果さえよければ、手段はつねに正当化される」と書いた。私は何もすべての独裁体制を肯定するわけではありません。あくまでも「いい結果」を出すことが大前提です。ローマ帝国の場合歴代の皇帝たちは「パックス・ロマーナ」を実現した。つまり、帝国の中で暮らしている人々は戦乱の不安もなかったし、また治安の悪化におびえる必要もなかった。だとしたら、やはりそれは「いい結果」ではありませんか。

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歴史的に見ても庶民はつねに健全、堕落するのは指導者のほう

<PB>しかし、そのリーダーがかならずしも公共の利益のために働くという保証はありません。場合によっては私利私益のために、権力を独占するかもしれません。
<塩野>私はその点で大衆を信じているんですよ。そんなにあなた、大衆というのは馬鹿にしたものではない。あなたは『七人の侍』をご覧になった?
<PB>黒澤明監督の、ですか? ええ、もちろん。
<塩野>あの映画では、野盗にしょっちゅう襲われる村があって、村を守るために百姓たちが7人の浪人を雇うことにした。浪人たちは米の飯が食えるとあって、やって来るんですが、もし、この浪人たちが本当に計算高い連中だったら、野盗を完全に撃退しないほうがいいわけです。
<PB>そのほうがいつまでも食事も宿も提供されるわけですからね。
<塩野>ところが人間というのは不思議なもので、この食い詰め侍たちはつい一生懸命になってしまうんですね。いろいろ工夫をこらして、とうとう野盗を退治する。そのかわり、彼らも7人のうち、4人までが死んでしまう。その結果、どうなったか。百姓はそれで危険がなくなったけれども、生き残った浪人たちはお役ご免でお払い箱ですよ。
<PB>たしか浪人役の志村喬が最後に「勝ったのは百姓だ」と言う。
<塩野>私はね、政治の基本形はこれだと思うんです。つまり、うまい寿司が食べたければ.寿司屋に行けばいい。うまい天ぷらが食べたければ、天ぷら屋に行く。へたに素人が自分で作ったって、うまいものは食べられない。それと同じで、政治は政治家に任せたらいい。で、一度仕事を任せたら、そばでじっと見ていてね、うまく行かなければさっさと殺せばいいんです。
<PB>殺す、ですか(笑)。
<塩野>古代ローマ帝国では、カリグラもネロも暗殺されました。たとえ皇帝であろうと、悪政を行えば殺される。ここが中国の皇帝と決定的に違うところです。だからローマの皇帝は、しょっちゅう行きたくもないのに闘技場やコロッセアムに顔を出さなければいけなかった。
<PB>皇帝も人気稼業だったというわけですね。
<塩野>そのローマにならって、われわれも期待はずれの政治家を殺せばいいんです。といっても本当に殺す必要はない。選挙で落選させるか、それが無理ならばスキャンダルで殺す。これは両方ともローマにはなかった方法ですが、その程度には人類は進化している(笑)。私はその意味で大衆を信じていますね。歴史的に見ても庶民はつねに健全なんです。堕落するのは指導者のほうであって、庶民はけっしてそんなことはない。古代ローマ帝国はその辺の歴史家あたりに言わせると、自由のない専制国家であるとされていますが、実際にはそうではない。主食の小麦の値段が上がったりすると、時の皇帝は声明文を出さなくてはならないし、カリグラやネロが税金を上げると、とたんに支持率が急落して、最後には暗殺されてしまうわけです。今も昔も大衆は同じように健全なんです。
<PB>でも、そうやって政治家に政治を任せて、はたして優れたリーダーが出てくるんでしようか。
<塩野>その答えは一つしかありません。要するに、いい政治家が出てくるまで私たちは任せつづけるしかない。で、それが期待はずれだったら、どんどんお払い箱にしていく。そうしているうちに出てきますよ、人材が。ただし、その場合、一度任せたら結果が出るまでは外野は口をはさまない。そうでないとプロに任せた意味がありません。

「公」がやるべきこと、「私」に任せること

<PB>しかし、これまでも日本人はそうやって政治家に改革を任せてきたのだけれども、誰もうまく行っていない。小泉首相にしても、構造改革を断固やると言っていたわりには進んでいませんね。
<塩野>小泉さんがそうだというわけではないけれども、みんなルビコンを渡る気で首相になってはいるんでしょう。それなりに改革をやる気てはいる。
<PB>「賽は投げられた」と言って?
<塩野>でも、ルビコンを一度越えたら、絶対に立ち止まったらダメなんです。カエサルにしても、ルビコンを渡るまでにはいろんな思いがあった。当時の国法ではルビコンを渡れば罪人になるわけだし、元老院との間で内戦が起きるのは必至です。そうすれば同胞とも戦わなきゃいけなくなる。しかし、いったん彼はルビコンを越えたら、そうした躊躇をすべて捨てた。だから成功したんです。
<PB>ところが日本の政治家は立ち止まってしまう。
<塩野>立ち止まったら、改革なんて絶対に無理です。改革と聞いただけで、既得権者があちこちから彼に矢を放ってくる。絶対に抵抗してきます。その連中の話を聞くために立ち止まっていたら、もうそれで終わりなんですね。そんなことをする暇があったら、改革によって得をする人たちに向かって、改革の必要性を訴えてそれを納得してもちうのが先決です。
<PB>敵を減らすよりも、味方を増やせというわけですね。
<塩野>だからこそ、リーダーには説得力が必要なわけ。
<PB>しかし、たとえ政治家がそうやろうとしても、今の日本には官僚という巨大な抵抗勢力がある。
<塩野>今の日本では「官と民」という問題がひじょうに大きなテーマになっています。でも、それは私から言わせれば、そもそも「官と民」という問題の把握の仕方が不幸の始まりなんですね。だいたい「官と民」を外国語に翻訳して外国人が理解できますか? 彼らは意味がわかりませんよ。そもそも官僚とは政治家の決めたことにしたがって働く存在であって、その「公僕」がなぜ民間と対立するのか。欧米人には理解不能でしょう。
<PB>そこが日本の特殊なところですよね。
<塩野>いや、それを日本独特の問題だと考えているところが、すでに不幸なんですよ。今の日本を見ていると、民間の側が何としてでも官の力を削ろうとしている。そんなことをすれば、官のほうだって徹底的に抵抗しようとするに決まっています。
<PB>実際に特殊法人だって何だって、猛反発があって進んでいません。
<塩野>官には巨大な既得権益があるわけだから、それは当然すぎるほど当然の反応なんです。しかし、そこでムキになって官と民が延々と争いを続けて何の意味があるのか、と私は思いますね。それだけの時間が日本に残されているんだったら、それでもいいですよ。
<PB>そんな残り時間はもうない?
<塩野>古代ローマの場合は、1世紀半にわたって混迷が続きましたが、あのときのローマは地中海に敵なしの状態だったから、それが許されたんです。しかし、今の日本にそれだけの余裕がありますかね?
<PB>アメリカもいれば、中国もいる。
<塩野>だとすれば、「官と民」がお互いにつぶし合う不幸な関係は早くやめたほうがいい。
<PB>官民協調というわけですか?
<塩野>そうではなくて、問題を「公と私」で考え直したらいいんです。つまり、「公(おおやけ)」がやるべきことは何かを政治家も官僚も民間も考える。そして、その一方で「私(わたくし)」に任せるべきところは何かも考える。そうすると対立関係ではなくなる。単なる役割分担という話になるから、もっと問題がすっきりする。ところが現代日本には、この「公と私」という観点がすっかり消えている。だから、構造改革も進まなければ、税制改革も進まないんですよ。
<PB>具体的にはどういうことになりますか?
<塩野>世の中には、「私」、つまり個人レベルの努力ではどうにも解決できない問題がある。たとえば、国家防衛は個人の手に負える問題ではありませんね。そこで、その仕事は「公」に任せることにして、自分たちはその費用を負担する。それが税なんです。これは何を意味するかと言えば、何もかも「公」に任せることはできないってことですよ。なぜなら「公」に任せれば任せるほど、費用負担としての税が増えてくる。ならば、どこまでを「公」にさせて、あとは個人レベルで解決するかを考えるしかないという結論になる。
<PB>そう考えると、ひじょうにシンプルですよね。
<塩野>なのに日本の税制論議を見ると、「最初に支出ありき」なんですね。官僚はもちろん、税制の専門家でさえ、年間歳出はこれだけだから、それに見合う税収を確保しなければならない、となる。
<PB>減税どころか、財政赤字で増税は必至です。
<塩野>これは議論の方向性が最初から間違っているわけです。古代ローマの場合は、それとは正反対で、直接税としてはせいぜい収入の10パーセントが個人負担の限界であると考えて、そこから国家支出のあり方を考えた。
<PB>たったの1割で?
<塩野>ローマ帝国の場合、10パーセントの直接税を主に負担したのは属州民だけで、ローマ市民なら収入にかかる税金はゼロですよ。現代の消費税にあたる間接税も1パーセントしかなかった。それ以上、負担させることは皇帝でさえできなかった。いつの時代だって、税の恨みは恐ろしいわけですからね。
<PB>それだけの税収で、あの帝国が維持できたというのは驚異ですね。
<塩野>できるもできないも、その税収の範囲内で「パックス・ロマーナ」を維持するのが皇帝の使命なんです。ちなみに、この税率はローマ帝国ができてから500年の間、ずっと同じでした。とすれば、市民のほうも「公」ではできないことは自分たちでやると考えるしかないわけです。たとえば、公共の場所の清掃は「公」の仕事だけれども、一般の道路はそこに暮らす住民が掃除をする。あるいは、道路のメンテナンスや公共建築までの予算が出せないということになれば、それはローマの有力者や富豪たちに一種の寄付として、その金を出させる。そのためには皇帝がみずから率先して私財の提供までした。そんな知恵を出すことでローマはやってきたわけです。
<PB>日本人も家の前の掃除から考え直せ、と。
<塩野>いや、私は何もかも古代ローマに戻れとまでは思いません。しかし現代のわれわれは、古代ローマとはまったく逆のやり方で国家を運営してきたけれども、それがうまく機能していないのもまた事実なんです。たとえば福祉国家を作るという目的はよかったにしても、その結果はどうか。税金や保険料がどんどん上がっていくばかりで、肝心の医療制度は破綻寸前ではないですか。じゃあ、どこで間違ったのか。それを原点から考え直していくべきじゃないですか?

たとえカッサンドラで終わっても、書き続けるしかない

<PB>いまや日本全体が破綻しかかっているようなものですからね。はたして塩野さんから見て、日本に希望はありますか。
<塩野>まだまだあると思って、私はことあるごとに書いたり話したりしているんだけれど、それに対する批評に──特に高級官僚に多いんだけれど──「あなたの提案はひじょうに興味深い。だけれども現実問題として不可能」なんて書いてある。そんなことは最初からわかっているんですよ、私だって。しかし、だからこそ現実のほうを変えるべきときじゃないですか? それを今までの日本は怠ってきたから、今の苦境があるわけですからね。でも、同じようなことを30年も言い続けてきたら、いい加減イヤになってくる部分もありますよね、さすがに。
<PB>「預言者、故郷に容れられず」の心境ですか。
<塩野>ギリシャ神話の中にカッサンドラの話があるのをご存じ? あるとき、ギリシャの神アポロがトロイの娘カッサンドラに惚れるわけ。彼女は一種の予知能力があって、何でも見通せる力があるんだけれど、そのカッサンドラがアポロに肘鉄を食らわすんですね。そうしたら、アポロは怒って呪いをかける。彼女が何を預言しようとも、誰も信じないという呪いをね。
<PB>アポロというのも、ずいぶん心が狭いというか、情けないやつですね。
<塩野>神様が万能無欠でなくて、欠点があるというのがギリシャ神話のいいところなんです。さて、このカッサンドラは自分の故郷トロイの滅亡を予知する。そこで町の人々に警告を発するわけですが、誰も信じてはくれない。
<PB>で、結局トロイは滅亡するわけだ。
<塩野>そう、ギリシャのアガメムノンやアキレス、オデュッセウスたちによってね。で、この伝説がもとになって、今でもヨーロッパでは、言っても誰も信用してくれない人間のことをカッサンドラと呼ぶわけです。だから、私は30年このかた……。
<PB>カッサンドラだったと。
<塩野>アポロに惚れられたことは残念ながらありませんが(笑)。このカッサンドラと同じ悩みを持ったのが、マキアヴェッリなんです、彼はルネサンス期の国家を見ていて、「このままでは滅びる」と思って、あちこちで言ってまわった。ソフト・ランディングではダメだ、ハード・ランディングしかないとはっきり言ったのは、当時では彼だけだった。しかし、多くの君主はハード・ランディングの勇気を持たなかったので、みんな滅びてしまう。そこで彼はカッサンドラの苦しみを実感するわけです。ただ、彼の場合はチェーザレ・ボルジアという君主に出会うことができて、実行するチャンスを得ることができた。
<PB>塩野さんのチェーザレ・ボルジアは現れるでしょうか?
<塩野>さあね。何やら、このごろの日本を見ていると腹が立つことばかりでね。でも、言わないでいるとますます腹が立つから、たとえカッサンドラで終わってもいいと思って書き統けることにしています。その一つが今度の『痛快!ローマ学』なんですよ。まあ、私にとっての『君主論』みたいなものです。

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